2015年05月22日

大阪、難波宮、遷都に結び付く乙巳の変から壬申の乱など見ると、その当時の歴史だけでなく今が見えるのではないだろうか?

 難波宮、遷都に結び付く乙巳の変、その当時の歴史だけでなく今が見えるのではないだろうか?
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=8712738&id=1942353691
                 2015年05月22日06:21
              全体に公開 みんなの日記 29 view.

 私は今、大阪市立歴史博物館のボランティアガイドをして外人や子供らに大阪にあった難波宮などの成り立ち、またそれらの遺跡、考古学とは何ぞやなどをガイドしている。

 これらを見ていると以下に書いた乙巳の変などは舒明天皇の皇后、皇極天皇(斉明天皇)の子、中大兄皇子や中臣鎌足らを使って蘇我入鹿を殺した様は、まさに鳩山由紀夫を首相として二度目の政権交代を成し遂げた小沢一郎を排除したい、既得権益を失いたくない米、悪徳ジャパンハンドラーのCSISらやその狗、手先の売国奴官僚らが菅、野田らを使ってのクーデターで、有馬皇子の変などをみれば、当に小沢排除することで孝徳天皇(安倍晋三)を祭り上げるのと非常によく似ている。

 また白村江の戦いなどは当時は百済に新羅の戦いに唐が加わり、日本の斉明天皇、また息子の中大兄皇子、大海人皇子や更に大田皇女、額田王、中臣鎌足の他、多数の従者を引き連れ難波津から伊予の熱田津に渡り、更に那大津(博多、福岡)に拠点を移し、百済救済の為に大軍を率いて朝鮮に船出する。

 それらを見ていると今様に仮想敵国、中露、北朝鮮やイスラム国を作り、アメリカの為に自衛隊を海外に遠征させ、アメリカの戦争に加担する集団的自衛権を行使して多くの自衛隊員を送るのを想起させる。


 以下の事柄などを上記のように古い歴史を今様に置き換えて、その場面、場面を今のスティエーションに当てはめて行くと次はどうなるか想定、推測出来る。

 当に温故知新、古きを温ね、新しきを知るはまさに歴史の面白さ、歴史の利点である。

 そのように見て、考えると難波宮を見ただけで以下の歴史模様が走馬灯の如く、まるで大スペクタクルの映画のように想像される。


 以下のURLをクリックしてみると歴史だけでなく今が見えるのではないだろうか?

乙巳の変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89

 乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。

 難波宮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%AE%AE

 有間皇子の変
http://www.asuka-tobira.com/arimamiko/arimamiko.htm

 (有馬皇子の変
http://history.kaisetsuvoice.com/Arima.html
中大兄 飛鳥に帰る

 白村江の戦い
http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm

 舒明天皇、皇極皇后の子供、中大兄皇子、大海人皇子、孝徳天皇(皇極天皇の弟)、間人皇后(皇極天皇の子供、中大兄皇子、大海人皇子の姉弟)

 660年百済滅ぶ
 659年、斉明天皇は蝦夷を連れた遣唐使を百済と敵対する唐に遣わした。唐はこの時百済に攻め入ろうとしていた。百済は新羅へ再侵攻したが、唐の高宗は新羅の軍とともに百済の都であった扶余(ふよ)に攻め入り、百済の義慈王(ぎじおう)は降伏する。こうして660年7月18日、百済が滅亡した。
 この後、百済使が百済の滅亡を伝えに日本に来航、当時の日本(倭国)にとっては大きな衝撃となった。
 唐は百済を統治し始めるが、それに対抗して、百済の元有力貴族等が反乱軍を結成する。その中心人物となったのが鬼室福信(きしつふくしん)だった。660年10月、鬼室福信は百済王朝を再建させるために倭国に次のような要請をしてきた。
 「631年から人質として倭国にいる王子(豊璋:ほうしょう)を国王位につかせるため送還してほしい。」
 (倭国から百済復興のための援軍を送ってほしい。)

 鬼室福信の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにした。筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となった。同行者には、中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、額田王、中臣鎌足の他、多数の従者。飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となった。
http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm

 その後に起る

 壬申の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1の結果、中大兄皇子(天智天皇)の子、大友皇子を殺した、中大兄皇子(天智天皇)の弟、大海人皇子【天武天皇】が即位するが、天武天皇の崩御で持統天皇になって行く過程で藤原宮に移る際に孝徳天皇が作った前期難波宮は放火されたのではないだろうか?

 と書いたように、日本の首都は高津宮から飛鳥(宮)京、難波宮と都は天皇と共に移って行ったのが見てとれます。

  参考に
 日本の首都を訪ねて
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/syuto.html

 現在の日本の首都は東京と言うことになっている。
過去において日本の首都は、時代の移り変わりとともに替わって来た。
古代には、天皇の住まいは一世ごとに移転され、宮(みや)と呼ばれる宮殿があった。
後には、中国王朝の影響で京(みやこ)が造営されるようになり、天皇は京の中の内裏(だいり)にお住まいになり、これを皇居とした。そこは、政治の中心でもあった。つまり、皇居のあるところが、「首都」であった。
都を移すことを、「遷都」といい、天皇の「詔(みことのり)」が発せられる。
都を平安京に移すという、桓武天皇の「詔」以降、実は「遷都」の「詔」は出ていない。
それには歴史上のいろんな問題があるのだが、それでもって、日本の首都は今なお、京都であるという説もある。

天皇の在所を示す玉座である高御座(たかみくら)が安置されているのは今も京都御所である。
1990年(平成2年)に、現在の天皇の即位の礼が東京で挙行された時は、京都から一時的に運んだ。
そして、日本の首都を東京とする法律は、今なお、発布されていない。
posted by てんぐゆうたろ at 07:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会、歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。